バイパス手術は、もともとの冠状動脈狭窄を完全に治すものではなく、あくまで、別の血液路をつくってやるということだから、手術後、生活習慣を改めなければ、バイパスした血管にも病変がすすむことになる。
事実、患者自身の体から採取してバイパスにつかった静脈グラフトの五〇%、動脈グラフトの一〇%が一〇年以内につまってしまうことが統計的にも明らかにされている。
このA氏の場合、抗凝固剤を決められたとおりに飲んでくれるか、禁酒禁煙を実行できるかなど多くの課題があったが、結局、当初予定したとおりの手術をおこない、その後は内科医とソーシャルワーカーの厳重なフォローアップにゆだねることになった。
このように分業体制がしっかり整っていることは、アメリカの医療の大きな魅力でもある。
しかし、うらがえして言えば、たとえば前述のファロー四徴症の例では、若年者の妊娠、幼児虐待など、また後者の成人例では、ベトナム戦争後の精神的トラウマ、健康保険制度の不備など、現在のアメリカの医療がかかえる社会問題を象徴的にあらわしているともいえる。
私か最初にアメリカへ渡ったのは、一九八八年、J大学心臓外科特別研究員としてだった。
最初は、心臓移植という治療法のすばらしさに魅せられてアメリカ留学を志したのだが、アメリカの医療現場での経験は、私にさまざまなことを教えてくれることになった。
移植のかかえる問題に日々直面し、また、心臓外科という分野にひらかれたほかの可能性も知るにつけ、めざすべき理想の心臓外科医像が、いつしか明確な形をとりはじめた。
幸い、J大学、B大学、Mクリニック、大学と、アメリカにいるあいだに在籍した施設が、さまざまな意味で全米を代表する医学校を併設していたことは、医学教育のあり方についても考える恰好の機会を提供してくれた。
日本の大学の医学部を卒業し、大学の外科の医局に入った新米の医者は、ふつう約半年間、手術室における手洗い、術衣の着方、ドレープ(手術をうける患者にかけて清潔術野をつくる布)のかけ方といった“清潔操作”や、糸の結び方など、基本中の基本を大学病院で学ぶ。
文字どおり、先輩の足手まといになりながら、外科医としての第一歩を踏み出すわけだ。
一九八四年春、岡山大学を卒業した私もその例にもれず、先輩たちに迷惑をかけどおしの大学での半年間の初期研修を終えると、同年九月末に、四十七士で有名な兵庫県A市にあるA中央病院に研修医として一年間出向することになった。
アメリカでは、研修医のことをレジデントと呼ぶが、そこには病院に住むくB.R家に帰るヒマもないほどに働くという意味が込められている。
院長先生や各部への挨拶をおえて、事務長が案内してくれた部屋は、病院の最上階のいわゆる「特別室」を改造したものだった。
わたしも文字どおり、病院に住むところから研修医としての生活がはじまったのだった。
大学病院で出会う患者は、すでに診断がついて各関連病院から紹介されてきた人たちばかりだったので、臨床の第一線病院での研修には大きな期待を寄せていた。
A市は当時人口八万人あまり、A中央病院は、市民病院とならび、市の基幹病院として位置づけられ、忙しいときはほぼ毎晩のように救急車が入る。
当時の外科のスタッフは院長以下、新米の私をふくめて四人。
院長をのぞく三人で交互に当直をすることになってはいたが、たとえ自分の当番でなくても、新米の研修医で、かつ院内に住んでいる自分がまっさきに救急外来に駆けつけるのは当然のこととなる。
こんなに密度の濃い研修はないと感謝しながらも、三日四日連続で徹夜すると、思わず音をあげてしまいたくなる。
今から考えれば、不謹慎きわまりない考えだが、当時、すでに婚約していた私は、未来の妻に早速電話をし、「こんな生活ではなかなか会えそうにないから、早く婚姻届を市役所に出してこちらにおいでよ」と話した。
いわば家庭をもつことで、院内住居から解放されようというわけだ。
もくろみどおり、新婚さんを病院のなかに住まわせておくわけにもいかない、ということになり、一〇月末から、病院まで五分の新居で、新しい生活がスタートした。
一九八四年一一月上旬、京都で日本胸部外科学会総会が開かれた。
私は、医師となってはじめての学会に参加すべく、宝ヶ池の国際会議場に向かった。
テーマごとにいくつかの会場に分かれて発表と討議がおこなわれていて、それぞれ興味のある分科会に自由に参加するわけだが、残念ながら卒業直後の新米医師にはさしたる問題意識もなく、何を聞いてよいか皆目わからない。
仕方なく学会場中央のロビーで、同じ教室の先輩を待つことにした。
しかし、あてにしていた先輩たちが一向に現れない中、かわりに近づいてきたのは、大柄な三〇代半ばくらいの白人だった。
この出会いが、私の心臓外科医としての歩み方を決定づけることになるとは、その時は知るよしもなかった。
J大学心臓外科主任教授B.R、四〇歳(当時)。
あの有名なJ大学の主任教授がこんなに若いことに、私はまず驚いた。
それ以上に感激したのは、当時、移植医に対して抱いていた自己顕示欲の強いエキセントリックな人物像とは対極にある、その穏やかで謙虚な態度だった。
予備実験の重要性を強調し、人への移植が成功してからも、さらに新しい課題をとらえつづけようとする姿勢を示した。
あのとき自己紹介しておけばよかった、と悔やんでもあとの祭りだ。
講演のあとは、多くの教授たちに取り囲まれ、とても私のような卒後一年生が近づける状況ではなかった。
このB.R教授との出会いから、またたくまに一年がすぎさった。
一九八四年一〇月、A中央病院における一年間の初期研修を終えて岡山大にもどった私は、大学院生として、そろそろ学位論文のテーマを決める時期を迎えていた。
研究のみに没頭する期間が決められている欧米とちかって、日本の医学部の(とくに臨床系学科の)大学院では、臨床の研修をつづけながら、そのあいまに研究も併行しておこなう制度になっており、その間に博士号をとることが大きな目的となっている。
どこの大学の教室でも、そこが伝統的にやってきている研究がいくつかあり、その流れの中の一部を学位論文のテーマとして与えられ、そうして学位を取得したあと、通例、地方の関連病院にスタッフとして出向する。
ところが、ほかの同級生たちがつぎつぎとテーマを与えられているのに、私には一向にその気配かない。
心配になってT.S教授に学位論文のテーマのことを尋ねてみると、「君には、なにか新しいことをしてもらおうと思っているんだ。
何か面白いか、それも自分で探してほしい」という。
日ごろから、「研究のプロトコールもすべて上から与えられ、すでに予想されている結果を出し、大学が発行する医学雑誌にのせてもらって一丁あがり、なんて本当の研究じゃない。
そんなのは学位をとるためだけの論文であって、学問の進歩には一向に寄与しないじゃないか」と仲間うちで話をしていたので、T.S教授に性分を見抜かれていたのだろう。
「動物実験の費用などの経済的バックアップはするから、自分で課題を探せ」というわけだ。
今から考えれば、どこまでできるか試してみようということだったのだろう。
まず、テーマを決めなければならない。
そのために、過去五年間のおもな心臓外科関係の論文を読みあさることからはじめた。
インプラントからはシャープな印象を受けました。他のインプラントより圧倒的にオトクです。
インプラントの方法をご存知ですか?いつもヤル気にさせてくれるインプラントです。
文書をインプラントごとに用意すると煩雑になるため、インプラントの協力を得て共通データベースを開発する。